アメリカの変化

三浦 昭(18期)
ウィスコンシン大学名誉教授

 私が初めてアメリカに来たのは、1950年の夏、ガリオア留学生としてであった。その頃は、まだフルブライト留学生というものはなく、日本とドイツという第二次大戦の敗戦国を対象として米国が始めたものが、このガリオアというプログラムだったのだ。ガリオアは、GARIOA、つまりGovernment Aid for Relief in Occupied Areasというもので、1949年に始められた時には、少数の教育関係者のみが選ばれ、一般に開かれたのは次の年だった。大学卒業生で35歳以下の者が、その試験を受けることを許され、全国から数千人の者が受験したと思う。その頃の女性は、大学卒が少なかったので、専門学校卒業の女性も受験を許されたのである。私は幸いにも、三百人足らずの合格者の一人として選ばれ、一年間の留学が可能となった。

 1950年の7月に渡米した私にとって、アメリカ留学は忘れ難い経験であった。一年間の留学後、1951年の夏に帰国して、日本で教育に励んでいたが、1957年にアメリカ人と日本で結婚し、彼女の希望で1960年からアメリカへ移り、以後現在までアメリカに居住している。つまりアメリカ滞在がすでに五十年になり、アメリカのいろいろな変わり方を見てきたわけである。83歳になってしまった私は、歳のせいで、昔がなつかしくなり、社会の諸変化に悲しさを感じることが多いので、それについて書いてみたい。

 先ず気がつくのは、言葉の変化である。日本語も同様だが、英語も時と共に変わりつつある。例えば、人に会った時に、”Hello !”と言う人は非常に少なくなり、”Hi !”が普通になった。そして、普通の会話で”Yes !”の代わりに”Yeah !”と言う人が実に多い。

 昔は、「あなたたち」「君たち」の意味で”You folks”と言ったものだが、今は“You guys”が普通になってしまった。単数形のguyは「男」の意味なのに、複数形なら、相手が男と女でも、女だけでも、使われるようになってしまった。私の子どもたちも、私たち両親に、”What are you guys doing today ?”などと平気で言うようになった。

 そして、”you know”という言葉を差し込むことが、呆れるほど増えてきた。昔も、”you know”の使用がなかったわけではないが、この頃は、やたらにそれが入る。文の終わりに”you know”を入れる人もいるし、もっとひどい場合には、文の始めや文の途中に“you know”を差し込む人もかなりいる。数ヶ月前のことだったと思うが、John F. Kennedyの娘Carolineが、テレビのインタビューを受けた時、やたらに”you know”を使うので、テレビ担当者にも気づかれ、そのことにコメントした人もいた。昔の人は、”you know”をあまり使わず、言葉がうまく出て来ない時には、”uh”とか”um”などと呟いただけだったと思う。

 もう一つの大きな変化は、intonationと言えるだろう。昔は、疑問文でない限り、文末のintonationが下がるのが普通であったが、この頃は、パラグラフ的なものが終わらないと、下がらないことが多いようにさえ思われる。

 そのほかの大きな変化の一つは、first nameの使用が増えたことであろう。私が1950年に男子大学に留学した時、どのクラスでも先生が学生の苗字にMr.をつけて呼んでくれた。高校ではfirst nameなのに、大学に入ると大人扱いをされ始めたと言えるだろう。そして、店の人も、客をfirst nameでは呼ばなかった。私は時々写真屋へフィルムを持って行き、プリントを作ってもらったのだが、必ず”Mr. Miura”と呼ばれたことを思い出す。歯の治療に通った時、歯科医の助手(女性)が、いつも私を”Mr. Miura”と呼んでくれたことも忘れ難い。

 変わったのは、言葉だけではない。服装も非常に変わったと言えるだろう。1950年頃に、アメリカの女性は、ドレスかスカートを身に着けるのが普通だったのである。大学の女子学生も、キャンパスで授業を受ける時、そういう姿で現れたものだ。Blue jeansのようなズボンをはくのは、ピクニックの時などだったと思う。今は、スカートやドレスを着て歩いている女性を見かけることは、ほとんどない。

 アメリカでこの頃非常に流行っているのは、野球帽の使用だ。安いレストランへ行くと、野球帽をかぶったまま食べている男性が結構多い。町を歩いていても、野球帽をかぶって歩いているのは、男性の若者が一番多いようだが、女性もいるし、歳を取った男性も少なくない。私がまだ大学で教えていた頃のある日、野球帽をかぶった男子学生が、それを脱がずに私の授業を受けようとしたので、私は「クラスでは帽子をかぶらないで下さい」と頼んだ。その学生は帽子をぬいでくれたが、不満げな顔つきであった。

 靴も全く変わった。昔、スニーカーを履くのは、何かスポーツをする時かピクニックや散歩に行く時に限られていたのに、この頃の学生を見ると、いつでもスニーカーを履いているのに気づく。それ以外のものを履いている学生は、ほとんど見かけない。

 昔の教授たちは、男性なら必ず背広を着て、ネクタイを締めていた。そして、教室がよほど暑くて、上着を脱がなければならなくなると、”Excuse me !”と言ってから脱いだ。大学院生も、必ず背広を着ていた。大学生は背広でなく、もっとinformalな服装でクラスへ行くのが常であったが、Tシャツでクラスに出る者は、ゼロだったと思う。Tシャツは下着だったのだ。

 そのほか目立つのは、いれずみの増加だ。日本語でも、この頃は「いれずみ」と言うと、古臭く聞こえるからか、「タトゥー」と呼んでいるようだが、アメリカでのタトゥーの流行は、信じられないほどだ。1950年に私が留学した大学で見かけたタトゥー男は、たった一人だけで、彼は海軍から帰ってきたからであろうか、腕に錨の小さなタトゥーを一つ入れていた。現在のアメリカでは、昔と違って、タトゥーだらけの腕が目立つ。そして、腕だけではなく、胸にも腹にも、そしてその他の部分にも、タトゥーをつけている者が多い。そして、それは男性だけではないのだ。プールなどで泳いでいる女性を見れば、それがすぐ分かる。タトゥーは、決して美しいものではないし、老人になって皮膚が老化すると、ひどい状態になると思うが、タトゥーの男性も女性も、そんなことは考えないらしい。

 もう一つの変化は、ひげが増えたことである。勿論、ずっと昔のアメリカでは、ヒゲ男が多かった。例えば、リンカーン大統領の顔は、ひげで覆われていた。しかし、1950年に私が初めて渡米した頃のアメリカには、ヒゲ男がほとんど皆無だったのである。私が留学した大学でも、ヒゲを生やした先生は、いなかったように思う。学生の間にも、ヒゲ男はほとんどいなかった。たまにはいたが、せいぜい口ひげ程度だった。ほかの男子学生たちは、いつもきれいに顔を剃っていた。この頃の男性は、かなり変わってしまい、無精髭をはやしたまま歩いている学生も少なくない。テレビで見かけるバスケットボールやアメフットのプロ選手の顔も、私には「見苦しい」と言いたくなるほどだ。ひげだけではなく、髪の毛も同様である。若者たちが理髪店へ行く頻度は、かなり減少しているようである。

 そのほかの変化として気づくのは、backpackの流行である。昔の学生は、手に教科書とノートブックを持って歩いていたのだが、この頃は、もっぱらbackpackだ。

 最近の変化の一つは、hugという習慣である。昔のアメリカ人は、友人に会うと握手をするだけだったと思うが、現代のアメリカ人は、お互いに抱きつくことがやたらに多い。私が初めてアメリカへ来た時、抱きつくのはprivateな行為だと考えられていたから、ほかの人たちの前で抱き合うことはなかったのに、この頃は大学生たちが、よく抱き合う。この慣習があまり流行って来たので、それをキャンパスで禁止した大学もあるそうだ。

 私のように歳を取ってくると、とても気になることがもう一つある。それは、この頃のスポーツ選手の表情がひどいということだ。私はテニスが好きなので、最近体調を崩すまで、自分でもやっていたし、今でもテレビで試合を見るようにしている。昔のテニスは、紳士淑女のスポーツだった。試合中の態度も、見ていて気持ちのよいものだったのに、この頃の選手はひどい。特に女性のプロたちは、ボールを打つ度に、ひどい声で叫ぶのだ。私はテレビで見ていても、それがあまりにも聞きづらいので、音を消して見るより仕方がない状態になってしまった。女性のプロの一人が、そのことを批判された時、「私は別に悪いことをしているとは思わない」などど、平気で答えたのだから、呆れてしまう。

 私はバスケットボールが好きで、中学高校時代に、戦争でやめざるを得なくなるまでやったものだ。アメリカへ来てからも、バスケットの試合へ行ったり、テレビで見たりするのだが、選手たちがかなり乱暴になってきてしまい、昔なら反則だったプレーでも、この頃は審判の笛が吹かれないことが多い。Los Angeles Lakersで活躍したKareem Abdul Jabbarなどは、紳士的な選手だったが、この頃は彼のような選手が見られないと言えるだろう。

 Joggingという運動は、日本でもかなり流行ってきたが、このスポーツは、昔なかったし、joggingという言葉も使われていなかったのである。1950年頃のアメリカで、走る練習をしていたのは、陸上選手たちだけだっとと思う。今は、どこへ行っても、誰かが走っているのは珍しくない。そして、女性も実に多い。日本でも同様であろうか。

 日本でも同じようだが、アメリカでは外食が非常に増えている。日本でも有名なKentucky Fried Chickenやマクドナルドがアメリカで流行り始めたのは、1960年代だったと思う。そして、私がアメリカに初めて留学した頃、ピザもまだ全然流行っていなかった。ピザは現在の日本でも結構よく食べられているようだが、私が東京で初めてピザを食べたのは、1956年頃、アメリカ人の友人に誘われて、麻布あたりへ行った時だったようである。

 次に、社会的な変化について語ってみよう。一つは、犯罪の増加である。日本でも犯罪率が高まって来ているが、アメリカではもっとひどいようだ。私の住んでいる地方では、この頃の新聞やテレビの第一トピックが犯罪ニュースであることが多い。しかも、それが、殺人や強盗や強姦のニュースなのだから、私は憂鬱にならざるを得ない。

 すべての値段が上がったのは、日本も同様だが、私が初めて渡米した1950年には、何でも安かった。ニューヨーク市の地下鉄は、たったの10セントの料金を払えば、どこまでも行けたのである。今は、2ドル以上になってしまったが、東京の地下鉄料金と比べれば、高いとは言えないかもしれない。郵便は、葉書が1セント、封書が3セント、日本への航空便は、airletterなら10セントで済んだが、現在では98セントになっている。E-mailが流行している現在は、郵便で手紙を送る人が極端に減少したが、それは日本も同様であろう。

 服装や習慣以外に、もっと社会的な変化について語ってみよう。一つは、犯罪の増加である。日本でも犯罪率が高まってきているが、アメリカでは、もっとひどいようだ。私の住んでいる地方では、この頃の新聞やテレビでの第一トピックが犯罪になることが多い。しかも、それが殺人や強盗や強姦のニュースなのだから、私は憂鬱になってしまう。

 ひどい変化についてばかり書いてしまったので、最後に、もっと明るい事柄について書いてみたい。先ず一つは、日本車の増加である。日本車は、1960年代までこちらでは見られなかった。その頃、家内(アメリカ人)の従兄が自動車の商売をしていて、ダットサン(この名前は、もう使われていないようだが)を手に入れたので、家内の両親がそれを一台買ったのだ。ある時、我々夫婦はそれを借りて、小旅行をしたのだが、しばらく行くと、shifterが折れてしまった。幸い、近くにガソリンスタンドがあり、そこで何とか直してもらえたので助かった。それ以来、アメリカでは日本車がどんどん増え、どこへ行っても日本車の姿が見える。今はトヨタ車がアメリカで大問題になっているが、ひどい結果にはならないだろう。

 日本料理のレストランも、どんどん増えている。1950年には、ニューヨーク市ですら、三軒ぐらいしかなかったし、1970年に私がマディソン市に引越した時には、一軒もなかったのに、今は十二、三軒もある。そして、寿司の人気が増えて、お客はちゃんと箸を使って食べているのだ。

 最後に言いたいのは、タバコを吸う人が減ってきたということである。日本でも喫煙者がある程度減少しているようだが、アメリカの方が変化がずっと目立つ。癌を防ぐために、禁煙を増やそうとする傾向が強まってきているのだ。私の住んでいるウィスコンシン州の州都マディソン市では、去年から、レストランやバーがすべて禁煙となり、今年の七月からは、州全体にそれを広げることが決定した。私が教えていたウィスコンシン大学では、すべての建物が、十年以上前から禁煙となったので、私のようにタバコを吸わない人間には、大変教えやすい環境になったのである。

 社会が悪くなるばかりではなく、よくなる点もあれば、生きている我々には有難い。


<会報53号掲載寄稿のフルテキストバージョンです>